現代文は受験科目として成立するのか?|AIが暴いた採点基準の問題
#現代文#大学入試#採点基準#AI#カント#共通テスト
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1章 AIは東大数学で満点でも現代文が苦手
2026年の春、生成AIが、東大入試で理科三類の首席を上回りました。合格者の最高点が453.60点だったのに対し、ChatGPTは503.59点。約50点もの差です。「AIは東大に受かるのか」という問いは、とっくに終わった議論になっています。
ただ、この数字には、一つだけ注釈が要ります。採点したのは、東大ではありません。河合塾の講師陣が、人間の受験生とまったく同じ基準で、AIの答案を採点しました。別の検証では、東進が、試験の当日に自前で模範解答と配点と採点基準を作り、それに照らして点数を出しています。
数学なら、これはほとんど問題になりません。証明が正しいかどうかは、答案を読んだ人全員が確かめられるからです。基準を誰が作ろうと、正しい証明は正しい。
でも、現代文では?——話が変わってきます。採点の基準そのものが、予備校が作った「擬似的な模範解答」に頼っていることになるからです。
そもそも東大は、解答例を公表していません。2018年、入試担当の理事は、一般入試の解答を開示するつもりはあるか問われて、「全くやるつもりはない」と言い切りました。答えは一つに定まらない、見たいのは結論ではなく過程だ、という趣旨のようです。「出題意図」の公表だけは始まりましたが、答えが一つに決まる設問以外は解答の公開はなし。国語の配点の内訳も非公開で、受験生の手元に返ってくるのは、開示された点数だけです。
整理すると、こうなります。採点基準は、確かに存在する。毎年、答案は採点され、点数が返ってくるのだから、その「効き目」は観測できる。でも、基準そのものは、東大の外にいる誰も、一度も見たことがない。受験生も、予備校も、AIも、点数という結果から逆算して、見えない基準の姿を推理しているのです。
2章 現代文は筆者本人も自作の問題を解けない
「筆者が言いたいことは何か」を問う問題は、現代文の定番です。評論でも、小説でも。でも、その問題、そもそも成り立っているのでしょうか。——かなり、あやしい。
強力な証言があります。問題に使われた文章を書いた、本人です。
エッセイストの岸田奈美さんは、自分の作品が使われた難関中学の入試問題に挑戦し、「作者なのに解けなかった」と公表しました。もし採点の基準が「筆者の本心」なら、筆者は満点を取れるはずです。でも、取れなかった。岸田さん自身、「入試で本当に問われているのは、原作者の意図ではないのでは」という結論にたどりついています。
もう一つ。2018年には、あるテレビ番組が、自分のエッセイが入試に出た武田砂鉄さん本人に、その問題を解かせる企画を放送しました。「作者の気持ちを、作者は解けるか」という企画名の期待どおり——いえ、期待以上で、武田さんは不正解があったどころか、出演者の中で最下位でした。
そもそも、文学の研究者たちは、80年も前に、同じ結論に着いていました。「作品の意味を決めるのに、作者の気持ちを持ち出してはいけない」。1946年、アメリカの批評家が、これを「意図の誤謬」——作者の意図をたよりにするのは誤りだ、と名づけ、1960年代には、フランスのロラン・バルトが「作者の死」という有名な論文で、「書いた本人にも、意味を決める権利はない」と言い切りました。
そもそも、入試問題では、「作者の気持ちを答えなさい」という問題ばかりではありません。聞かれているのは、本文を根拠にした「読み取り」です。東大の問題文は、たいてい「どういうことか、説明せよ」。つまり、本文という材料を、自分で組み立て直す作業なのです。
では、その「組み立て直し」の出来を、何と照らし合わせて採点するのか。——その照らし合わせ先だけが、誰にも見えない場所にある…..。
3章 カントが240年前に指摘した「認識の限界」

この「結果だけ見えて、中身は見えない」という状況を、240年ほど前に、見事に言い当てた人がいます。哲学者のカントです。
サングラスをかけたまま写真を見ると、その色が本当の色なのか、レンズのせいなのか、よくわからなくなりますよね。ふつうは、外せば済む話です。
でも、もしそのサングラスを、生まれたときからずっとかけていて、一生外せないとしたら、どうでしょう。もちろんもしもの話です。あなたが今まで見てきた赤も青も、ぜんぶレンズを通った後の色です。レンズなしの「本当の色」がどんな色なのか——確かめる方法が、実はありません。確かめるにはサングラスを外すしかないのに、外せないからです。目以外で世界を見る、なんてことは誰にもできないのです。
カントは、これが「人間と世界の関係」そのものだと考えました。私たちはいつも、何かを通した後の世界しか、受け取れない。レンズ越しに見えている姿を「現象」、レンズの向こうにある本当の姿を「物自体」と名づけました。むずかしい言葉ですが、ようするに、「見えている方」と、「どうしても触れられない方」です。
この話が、東大国語に、ぴたりと重なります。
受験生に返ってくるのは、点数だけ。これが「見えている方」(現象)です。その点数を出力した採点基準(物自体)は、最後まで出てこない。これが「触れられない方」。予備校に見えているのは点数開示後の生徒の点数だけ。だから予備校は見えている点数をヒントにして、どうしても触れられない「模範解答と解答基準」を描こうとする試み——そういうことになります。
4章 AIに現代文の採点基準が見えない理由
基準が見えないままだと、こんな困ったことが起きます。
たとえば、二つの予備校が、同じ答案にちがう点数をつけたとする。どちらが正しいのか、決める方法がありません。見比べるための「おおもと」が、金庫の中だからです。
ここで、さっきのサングラスの話と、一か所だけちがう点に気づきます。
カントのサングラスは、誰にも外せません。「見えない」ことが、人間という仕組みに、最初から組みこまれている。いわば、宿命です。
でも、採点基準が見えない理由は、種類がちがいます。あれは、金庫の中にしまわれた書類です。見えないのは、鍵がかかっているから。そして「鍵を開ける」という動作は、この世界に、ふつうに存在します。
生まれつき見えないのと、鍵がかかっていて見えないのは、まるで別ものです。生まれつきなら、あきらめるしかない。でも、鍵をかけているのは、ただ「そうしておこう」と決めただけのこと。
カントがやった、本当の仕事 ——「線を引く」こと
カントが、有名な本『純粋理性批判』でやったのは、知識を増やすことではありませんでした。やったのは、線を引くこと。「人間が、答えを確かめられる問い」と、「どうやっても確かめられない問い」の間に、一本の線を引いたのです。
たとえば、「水は何度で沸くか」「この橋は何トンまで耐えるか」。これは、線の内側。やり方さえ知っていれば、誰でも確かめられるからです。
いっぽう、「宇宙に始まりはあったか」「神はいるか」「死んだあと、魂は残るか」。これは、線の外。どんな手段を使っても、確かめようがないからです。
ちなみに、本のタイトルにある「批判」は、悪口という意味ではありません。この「線を引く」作業そのものを指しています。カント自身、まえがきに「信じることのために、知ることを区切った」という趣旨を書いています。
おもしろいのは、その結果です。確かめられない問いを、潔く線の外に置いたことで、内側に残った知識は、かえって確実なものになりました。「答えられないことに、答えるふりをする」のをやめた瞬間、「答えられること」の答えが、本物になったのです。
現代文が、科目としてちゃんと成り立つために必要なのも、たぶん、これと同じ線引きです。
作者の気持ちは、線の外で確かめられない。本文を組み立て直す作業は、線の内側で確かめられる。本文を根拠にした「読み取り」としての現代文ならば、すでに「解けうる」形になっています。ただし足りないのは、組み立て直した答えを、何と照らし合わせるのか。その「採点基準」が公開されていないことです。それさえあれば、現代文も、数学と同じように「解ける」科目になるかもしれない?
5章 現代文の採点基準を開示すると何が起きるか
……と言いたいところですが、ここで一度、立ち止まって検証してみます。「基準を公開すれば、現代文は数学と同じように解ける科目になる」——これも、正しくないかもしれない。金庫を開けたあとの世界を、具体的に想像してみましょう。
じつは、採点基準と模範解答を公開している試験は、世の中にたくさんあります。でも、それで問題が消えたわけではありません。
受験生の答案は、当然ながら模範解答と同じにはなりません。六十字の解答欄に書ける文章は、事実上、無限にあるからです。同じ内容を、別の言葉で言いかえるパターンも、数えきれない。
模範解答とは、いわば「意味の地図」に打たれた、たった一つの点です。でも正解は、その点ぴったりではなく、点のまわりに広がる、雲のような「範囲」全体。模範解答を公開するというのは、この正当になる一つのパターンを点で見せているだけ。実際に必要な模範解答は「雲の輪郭」が全て示されることです。しかし雲の輪郭は、原理的に、線で囲いきれません。言葉で明確な線引きを示すことができないからです。「〇〇という趣旨なら正当とする」のような書き方になり、結局、「〇〇という趣旨って、どこまで?」という問いが、まるごと残ってしまいます。
6章 現代文の採点者は答案をどう評価するのか
ここには、昔から知られている、やっかいな罠があります。「ルールを使う場面では、そのルールだけでは、判断しきれない」という罠です。
想像してみてください。あなたは採点のアルバイトです。手元には、公開された採点基準があります。「模範解答と趣旨が合っていれば、2点」。
一枚目の答案で、さっそく手が止まります。——趣旨が合っているって、どこまでを言うんだ?
先輩が、基準書の補足を見せてくれます。「『個人の尊重』に触れていればOK」。
二枚目で、また止まる。——「一人ひとりを大切にする」は、「個人の尊重」に触れたことになるのか?
補足の補足を作っても、今度は、その補足の読み方で迷う。基準書はどんどん分厚くなって、最後には、こう書いてあります。「そこは、見ればわかるでしょ」。
……いや、わからないのでは?
カントは、この問題についても論じています。『純粋理性批判』には、「ルールを、目の前の具体的な場面に当てはめる力」についての、短い一節です。カントいわく、その「当てはめる力」そのものには、ルールを与えられない。なぜなら、ルールを与えても、そのルールを当てはめる場面で、また同じ力が必要になるからだ、と。さっきの「補足の補足」と、同じ袋小路です。
そのうえで、カントはこう書きました。これは、教えることができない、ただ訓練するしかない、特別な才能である、と。
7章 現代文採点の「塩少々」と、味を見る舌

料理のレシピを思い浮かべると、すとんと腑に落ちます。
レシピには「塩 少々」と書いてある。少々って、どれくらい?「3グラムって書けばいいのでは?」——そう思いますよね。書けます。実際その方が正確に伝達できます。しかし、そのとき量を伝えているのは、文字そのものではありません。「グラム」という、あらかじめ決められた共通の単位と、「はかり」という道具です。道具を用いることで正確に判断できるようになっている。数学が、人工の言葉でやったことの、台所バージョンですね。
それでも、レシピには、絶対に置きかえられない一言が残ります。「味を見て、調整」。鍋の中身は、毎回ちがいます。トマトの酸っぱさも、味噌の塩けも、食べる人の好みも。どの状態を「ちょうどいい」と呼ぶかは、グラムでは書けない。何百回も味見してきた舌だけが、知っています。
採点基準の「同じ趣旨なら正当とする」は、この「味を見て」と、まったく同じことです。そして、現代文では意味が同じかどうかを測る「はかり」は、どこにもありません。採点基準を、どれだけ分厚くしても、「その採点基準を正しく使えているかの採点基準」は書けない。
8章 共通テスト記述式という国家規模の実験
これは、机上の空論ではありません。日本は、この問題で、国家規模の実験をしています。大学入学共通テストへの、記述式の導入です。
基準を細かく作りこみ、模範解答を整え、一枚の答案を二人がかりで採点し、評価が割れたら、上の採点者が話し合って決める——そこまでの体制を、組みました。
それでも、試行調査では、受験生の自己採点と、実際の採点が食いちがった割合が、21.2〜30.5パーセント。およそ2割から3割です。体制を立て直して臨んだ二回目は、改善するどころか、28.2〜33.4パーセントへと、むしろ悪化しました。
国語で、自己採点が7割ほどしか当たらなかった理由として、こう指摘されています——「模範解答を読んで、自分の答えが合っているか判断すること自体に、読解力が要る」。つまり、採点基準を読む行為が、すでに、国語の問題になっているのです。
さらに、五十万人ぶんの答案をさばくのに必要な採点者は、約一万人。その確保も、問題になりました。記述式の導入は、2019年に見送られ、2021年に、正式に断念されています。
基準を公開し、採点の体制まで整えた。それでも、判定は揺れた。雲の輪郭は、やっぱり、引けなかったのです。
9章 数学と現代文では正解の作られ方が違う
数学が、この罠にかからないのは、言葉の体裁ではないからです。二つの答案が、同じ結論にたどりついているかどうかは、論理が「自動」で判定してくれる。「意味が同じかどうか」の判定を、計算に肩代わりさせられるように、何百年もかけて、論理体系を整えてきた——それが、数学という科目です。
現代文の受験問題は、その道を選べません。なぜなら、「言いかえの雲の境界を、見極める力」が、現代文の過程で問われているためです。自動では採点され得ない。計りたい力を計るために、計りたい力を計るための力がいる。
ここまで来ると、さっき言ったことに、一か所だけ、修正が要ります。
基準を公開しても、現代文は「数学と同じようには」解ける科目にならないかもしれない。公開で手に入るのは、それとは別の種類のものです。
10章 現代文の採点基準を法律と司法から考える

現代文が受験として成り立つかどうかの判断で、有用なヒントが「法律」です。
法律の条文も、じつは、あいまいです。当てはめるときには、必ず解釈が入り、裁判官によって、判決が割れることがある。構造は、現代文の採点と、そっくりです。
それでも、裁判が信用されているのは、なぜか。解釈のブレを、ゼロにしたからではありません。判決に「理由」をつけて公開し、納得できなければ、上の裁判所に「不服だ」と訴え直せる——その手続きを、用意したからです。
さっき、「二つの予備校が、ちがう点をつけても、どちらが正しいか決める審判がいない」と言いました。司法がやったのは、まさに、その「上の審判」を作ることだったのです。
判定は、間違うことがある。でも、間違いうるからこそ、間違いを指摘でき、訂正が、積み重なっていく。「公開する」とは、判定を機械に変えることではなく、判定を「間違えられる状態」に置くこと。ここが、核心です。
では、金庫の中にしまわれたままの、模範解答と採点基準は、どうなるでしょう。——「絶対に正しい」ことに、なってしまいます。誰にも検証されないものは、そもそも、間違えようがないからです。
反証できない科学を「疑似科学」と呼びます。ならば、間違えることのできない模範解答は、いわば「疑似・模範解答」です。
11章 現代文で本当に試されているのは誰か
現代文という科目は、成り立たないわけではありません。ただ、目指すべきゴールは、「数学のように解ける科目」では、ないのかもしれない。
たどりつける、いちばん良い姿。それは、採点に「理由」がついていて、その理由に対して、誰もが「おかしいのでは」と、異議を申し立てられる科目です。司法が、条文と判決理由でやってきたことを、採点基準と採点理由で、やれるなら——現代文は、信頼できる科目になれる。
必要なのは、基準を公開すること。そして、指摘と、やり直しを受け入れる手続きを、つけ加えること。その手間を、引き受けるかどうか。
AIは、東大数学で、あっさり首席を超えました。でも、現代文で立ち止まったのは、AIが本文を読めないからでは、ありません。「解けたかどうか」を決める、採点基準自体が、金庫の中だからです。AIは、その金庫の存在を、数学との明白な差として、私たちの目の前に、出してみせた。
——試されているのは、AIではなく、現代文という科目のほう、なのかもしれません。
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