成功は才能より運で決まるのか|イグノーベル経済学賞を検証
#成功#運#才能#ギバー
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成功するのは才能のある人ではなく、運のいい人なのか
成功するのは、最も才能がある人ではない。最も運がいい人である。 2022年のイグ・ノーベル経済学賞は、それを数学で説明した3人の研究者へ贈られました。
世界は能力の順番どおりに成功を約束しない。そのことを、1000人の人生を1万回走らせたコンピューターが統計で証明しました。 彼らの仮想世界では、1000人が40年間のキャリアを送ります。最も成功したのは、最も才能がある人ではありませんでした。平均に近い才能を持ち、最も幸運に恵まれた人だったのです。
僕はこの結論を支持しますが、ただ支持しているのは結論だけです。 僕が違和感を感じているのは、才能も運も、現実世界では数字ではないということ。 そして、シミュレーションにおける運と、現実世界における運は、発生要因がまるで違う。
運が勝ったのは、数値に変換された才能に対してです。 一方で、現実における運は、関係と関係の相互作用から生まれ、その発生は、自分の意思で手繰り寄せられる類の現象です。
成功の要因の一つは運ですが、運は技術として習得するものです。 複数の先行研究から、論理を収束させてきました。 一つずつ紐解いていきましょう。
成功研究は起業家の成功をどこまで説明できるか
もとより、人間の才能や経歴は、成功をどこまで説明できているでしょうか。 起業家の成功に対する要因は、その一つ一つは驚くほど寄与していません。
研究を大雑把に1枚のTier表へ並べます。 左に、成功との相関係数。右に、その要因は成功に対して何パーセントを説明できるかという寄与度を示します。
最上段は、起業に必要な仕事を遂行できるという自己効力感。相関は0.309、寄与度は約9.5パーセント。 その下が、起業に適合した達成動機や能動性などの性格特性で0.250、約6.3パーセント。企業の革新性、先行性、リスク選好を表す起業家的志向性が0.242、約5.9パーセント。起業家の人間関係である社会関係資本が0.211、約4.5パーセント。 最下段は、相関へ直した事業計画の約0.10と、学歴、経験、知識、技能などの人的資本の0.098。寄与度は、どちらも約1パーセントです。
どれも、起業家へ向けた助言として聞いたことがあるでしょう。 ところが最高Tierの自己効力感でさえ、それ単体では成功に対して1割も説明できないのです。
計画は、知識がなければ正確に作れない。知識は、人間関係がなければ顧客や資金へ届かない。人間関係は、実行する自信がなければ成果にならない。研究は一つずつ切り出して測るけれど、現実では要因が互いの効果を変えます。単独の相関が弱いことと、その要因が不要なことは同じではありません。
同じ能力を持つ二人でも、市場、顧客、共同創業者、始めた時期が違うだけでも結果は変わります。 成功の原因は本人の内側だけにありません。
では、残りは運が決めていると言えるのでしょうか。 この空白へ、きわめて魅力的な答えを提示したのが『才能、対、運』という研究です。
『才能、対、運』で最も才能のある人が勝たなかった理由

『才能、対、運』の研究がイグ・ノーベル経済学賞を受賞しました。 2018年、イタリアの3人の研究者が、才能と運が成功へどう作用するかを、エージェント・シミュレーションで数学的に証明したものです。 アレッサンドロ・プルキーノ、アレッシオ・エマヌエレ・ビオンド、アンドレア・ラピサルダの研究です。
仮想世界を作り、1000人全員が資本10から始め、0から1までの才能を与えられます。 才能は平均0.6、標準偏差0.1の正規分布です。
エージェントは201掛ける201の空間へ無作為に配置されます。 そして500個の出来事が、その空間を無作為に動き続ける。半分は幸運、半分は不運です。
その人が幸運と接触すると、才能値と同じ確率で資本が2倍になる。 不運なら才能と無関係に半分です。これを半年刻みで80回、40年間繰り返します。
ある一回の実行では、才能0.61の人が資本2560で首位になりました。 反対に、最も才能があった0.89の人は、0.625まで減りました。
100回の実行をまとめると、さらに差が広がります。全実行を通じた最高記録は4万960。 その人物の才能は0.6048で、ほぼ平均でした。一方で才能が0.8を超える人が、その回の首位になったのは3パーセントにすぎませんでした。
1万回では、首位になった人の才能の平均は0.667でした。 平均より少し上の才能と、多くの幸運を持つ人が最も成功を収めたのです。
このモデルが鮮やかなのは、入力時点での分布と出力後の分布の形状変化が確認できたことです。 才能は平均へ集まる正規分布なのに、最後の資本は少数へ集中するパレート型になる。 幸運と不運の回数差を乗算が増幅し、資本差は数千倍、数万倍になります。
シミュレーションでは、才能の差よりも、遭遇できた幸運の回数差の方が、成功に対して圧倒的に大きく寄与していました。 才能はあった方が良いけれど、幸運にはまるで及ばなかったのです。
僕たちは、成功者が別の偶然に遭遇していた場合の人生を、観察できません。 だから現実の結果を、その人の能力の証明だと思い、幸運の効力まで実力へ数えてしまう傾向があります。 いわば生存者バイアスにかかっている状態です。
この錯覚を壊したことが、このモデルの秀逸さでした。 成功者の話も、たまたま成功しただけじゃないですか?という具合に。
このモデルの証明は数学的には正しいと思います。また、生存者バイアスを外す上で非常に示唆に富んだ成果です。 一方で、僕は、このモデルが証明したことと、実際の社会的な成功の因果も、また違うものだと思っています。 このモデルは、既存の錯覚を壊しながら、別のものまで壊していました。
数字では測れない、人間という存在そのものです。
才能と運のシミュレーションから人間の行動が消えている

このモデルの世界には、生命としての人間がいません。
『才能、対、運』の才能は、知性、技能、努力、粘り強さ、判断力、リスクを取る性質までを、一つにまとめた、ただの数字です。
このモデルの才能は、来た幸運を資本の倍増へ変える確率にだけ作用します。 この数値化された才能は、幸運の頻度に影響を与えず、不運を避けようとせず、経験から学ばず、40年間ずっと同じままです。 1000人の人間は最初の点へ固定され、動き回るのは出来事の方だけ。 人間同士は互いに一度も接触すらしません。 成長も退化もない。自己も他者もない。 このモデルの1000人は、社会における人間というより、入力を受け取って出力を返す電卓に過ぎない。
つまり、この世界には人間の「行動」が存在しません。
運が到着を決め、複利が差を拡大し、才能は到着後の一部だけを担当する。 このモデルでは、運が勝つのは不思議ではありません。
このモデルの中で、一人の人間がする仕事は、一つの計算だけだからです。 数字を受け取り、決まった計算をして、新しい資本の数字を返す。受け取る数字が同じであるかぎり、人間は与えられた入力から決まった答えを返すただの計算機。
ところが、現実社会は、このモデルのように閉じていませんし、人間自体も電卓ではない。 モデルでは、紹介された仕事も顧客から着想した製品も、お客様との関係性も、全てが外から運ばれた運になる。 しかし実際には、それらの一定の割合は、当の人間の行動によってもたらされたものであるはずです。
このモデルには、運を引き寄せる行動が変数として組み込まれていません。 では、モデルに行動という変数を足せば、このモデルは現実社会を反映するのでしょうか。
足すこと自体は、できます。幸運が到着する確率を、行動に応じて増える数字にすればいい。 しかし足した瞬間、証明自体が壊れます。 運の一部が行動の産物なら、それはすでに運ではなくなっているからです。 どこからが本人の成果で、どこからが運なのか、切り分けられなくなります。
成功は才能より運で決まるという結論は、運と才能を別々の引数に分けられるという前提の上にだけ成立します。 行動の追加は、モデルの修理ではなく、前提の放棄なのです。
現実の社会では、実際に人間の行動は自分自身も他者に対しても何らかの変化をもたらしています。 そしてここには才能も含まれる。才能とは生まれ持った資質だけではなく、開花させるものだからです。
そう考えると、才能自体も固定された数字に置き換えられる類のものではありません。 そもそも、才能とは、「量」で測る性質ではなく、「質」として捉えるものだと考えられます。
ベルクソンが考えた、才能は量ではなく質であるということ
経験は、才能に新しい点数を足すだけではありません。才能の性質そのものを変えます。 自分の仮説を守り抜いてきた人が、顧客の反応を受けて、その仮説を作り直す。努力の量が増えたのではありません。経験によって、努力の向きと判断の仕方が変わったのです。 知性、技能、努力、粘り強さ、判断力、リスク選好。それぞれを点数にして足せば、一つの才能値は作れます。しかし、その数字は才能そのものではありません。異なる性質を、比較のために同じ尺度へ移した結果です。
この違いを、1889年、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンが、『時間と自由』で2種類の多様性として区別しています。
数を数えるには、対象を互いに分け、同じ物差しの上へ並べなければなりません。これが数的な多様性です。
ただ、人間の意識で起こる現象ではそれはできないと、ベルクソンは考えました。 僕たちの現在には過去が入り込んでいます。昨日の失敗を切り離した今日の判断は存在しない。 反対に、昔の経験であっても、その後の経験によって当時と意味が変わります。
異なる要素が浸透し、分けると性質まで変わる。ベルクソンはこれを、質的な多様性と呼びました。
数的な多様性では、10に1を足しても、それまでの10は同じ10のままです。質的な多様性では、新しい経験が加わると、それ以前の経験の意味まで変わる。昨日と同じ批判を今日受けても、昨日その批判で失敗した人にとっては、同じ出来事ではありません。
モデルでは才能0.61のように数値として固定されていました。 この数値はシミュレーションが終わるまで一切変動しません。
一方で、現実世界の才能は、量として固定できません。経験によって、その質が変わるからです。 新しい経験は、知識の量を増やすだけではありません。すでに持っている知識の意味を変え、人間の感じ方や意思決定そのものを変えます。 同じ出来事が二度起きても、それを受け取る人間は、一度目と同じではありません。 一度目の出来事が、その人をすでに変えているからです。
人間の才能も現実では数値としては扱えない、質なのです。 経験が本人の感じ方や判断を変え、その判断から生まれた行動が、今度は他者との関係を変えます。 行動の影響は、本人の中だけで終わりません。他者へ渡り、時間を経て、紹介や信用や共同作業として返ってくることがあります。
その現象がよく現れるのが、見返りを求めずに、相手へ与えることを好む人たちにおいてです。 相談に乗り、知識を渡し、人を紹介する。損得の計算より先に、与える側に回ってしまう人。 この型の人が、英語のgiveから派生した、ギバーと呼ばれる人たちです。
ギバーが仕事成果の最下位と最上位にいる理由
誰かの役に立ちたいという動機は、仕事の成果とどれほど関係するのでしょうか?
2022年に公表された大規模なメタ分析は、201の研究を統合しました。 向社会的動機と仕事成果全体の補正相関は0.20で、寄与度はわずか4パーセントです。
これは、ほとんど寄与していないように見えます。
内訳を見ると、もっと奇妙です。向社会的動機は、勤務評価としては0.26。ところが、売上や処理件数など、数字で測った成果ではマイナス0.01でした。給与、実際の昇進、組織内の地位ともマイナス0.01。 向社会的な人は、良い働き手だとは評価される。しかし平均すれば、客観成果も所得も増えていません。
これは「善人は報われない」という結論にも見えます。 けれども、もう一つの可能性があります。打ち消し合う正反対の結果のために、平均が意味をなさなくなっている可能性です。
組織心理学者のアダム・グラントは、『ギブ・アンド・テイク』で、エンジニア、医学生、営業職という異なる研究を一つのパラドクスとして紹介しました。最も成果が低い群にはギバーが多かった。ところが、最も成果が高い群にもギバーが多かった。
これは単一研究の普遍法則ではなく、グラントが異なる結果を統合した仮説ですが、非常に示唆があります。 ギバーが最下位と最上位の両方へ集まれば、下端と上端が打ち消し、相関係数はゼロへ近づいて見えるからです。
ギバーの性質は、平均を少し押し上げる変数ではなく、成功と失敗の分散を大きくするものである可能性があるということ。
では、なぜ真逆の現象が起こるのでしょうか? この分岐を決めるのも与える「量」ではありません。 与え方の「質」です。
弱いつながりと主体的なギブが運を引き寄せる
『才能、対、運』では、幸運は、点として到着する入力としての数値でした。 しかし現実で、運と呼ばれる現象は、一定の割合で、人間の行動の結果から生じたものです。
チャンスは、完全に予測できるものでも、完全な偶然でもありません。 誰とつながるかは行動で変えられる。しかし、そのつながりが、いつ、どんな機会を生むかまでは制御できません。 茂木健一郎さんは、規則性とランダム性が入り混じった状態を、偶有性と説明しています。 運を引き寄せるのは、偶然だけではありません。偶然が生まれる前の、つながりの数と形、ひいては当人の行動です。
2022年、LinkedInのカーシック・ラジュクマールと、MITのシナン・アラルらが、知人推薦機能の表示を変えて2000万人超を5年間追跡した実験を、Science誌で報告しました。新しいつながりは20億件。転職は60万件。転職、つまり新しい機会を最も多く運んだのは、親しい相手ではなく、たまに連絡する程度の、適度に弱いつながりでした。チャンスは空から無作為に落ちず、人のつながりを経由して届いていた。『才能、対、運』で定数だった幸運の到着率は、現実では、つながりの数と形で動く変数なのです。
では、つながりを作る行動とは何でしょうか? 先に与えること、つまりギバーになることです。 相談に乗れば、相手の中にこちらの知識が残る。人を紹介すれば、信用が残る。与える行動はどれも、自分の外側に、自分を思い出す人を増やしているのです。
ただ、条件があります。見返りを一切求めないことです。 見返りを求めた時点で、与えるという行為は、ただの交換になってしまうからです。 そうではなく、無償の善意だけが、巡り巡って返ってくる可能性を生みます。 いつか何かの形で返ってくるかもしれないし、全く別の誰かとの関係が生まれるかもしれないし、特に何にもならないかもしれない。 それらは期待することではなく、結果としてそうなるということ。 これは、善意が広い系を巡るための構造になっています。
ゆえに、与えることは直接的な報酬を生みませんし、それを間接的にも期待するものでもありません。 ただ、そのような習慣があることが、二分されたギバーの成功している群に集まっているように観測されます。
人類は、この構造を昔から観測していました。仏教は、物事の生起を因と縁に分けます。 因は直接の原因、縁はそれを実らせる条件。種は因ですが、土と水と光という縁がなければ実らない。 この、条件の網の目から物事が生まれるという見方が、縁起です。

与えることは、成功の要因を作る行為ではなく、機会が生まれる縁を増やす行為です。 だから成功への因果としては計測できないのに、無関係ではない。 モデルのような閉じたシミュレーションで再現できない、現実世界の開いた系にのみ観測される現象です。
そして、前章で見たような、うまくいかないギバーと、うまくいくギバーを分ける分岐があります。 「与えた」のか、「与えさせられた」のかです。
要求を断れず、問題をすべて抱えてしまうことは、本来の意味では与えているとは言えません。 これは与えさせられた状態であり、受動的で消去法的な選択です。 断れないから与えるとき、選択の主体は自分ではなく、依頼主の側にあります。
与えるという行為が外側で決められ、求められるたびに同じ応答を返す。 これは先ほど見た、固定されたシミュレーション上の関数と同じ状態に、陥ってしまっています。
心理学者のネッタ・ワインスタインらは2010年、自分で選んで助けた場合と、義務感や断れなさから助けた場合を比べました。 自分で選んで助けたときだけ、助けた側の幸福感が上がり、助けを受けた側の幸福感まで高まった。 断れなさから差し出された善意は、受け取る側にとってさえ、価値が減るのです。
ならば、与えることで運を手繰り寄せるための成立要件は二つです。 一つ目は、見返りを求めないこと。求めない以上に、期待すらしないことです。 二つ目は、断れなさからではなく、本心から与えたいと思って与えること。 うまくいかないギバーは二つ目を欠いており、見返りを求める人は、そもそもギバーではない。
本当の意味で「与える」ということは言うほど簡単ではありません。 自身に与えるだけの、器量や時間、気持ちの余裕がなければならないからです。 簡単ではありませんが、できないことでもありません。
与えることは気持ちの問題とも言えますが、その気持ちを作るのは技術的な習得にも近いです。 先天的な性格ではなく、与える練習をすることによって徐々に当たり前になっていく、いわば習慣のようなもの。
イグ・ノーベル賞のモデル中では、運はアルゴリズムによって制御され、人間に行動の自由はありませんでした。 行動がなければ与えることもできませんし、縁も生まれません。
もちろん現実の世界は、そのような閉じたシミュレーションではありません。 運は縁起として手繰り寄せるものであり、それは与えるという行動によって起こる結果的な現象です。
本心から、主体的に与える習慣を身につける、それが僕の主張です。
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